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蟠龍湖の名付け親!

山路忠恭の生涯

万延1年(1860年)津和野に生まれる。森鴎外の2歳上、本名 鋼善。右田家10代の末裔という。

 

明治5年(1872年)益田小学校のホームページによれば、益田小学校の創設はこの年で児童数9名、山路忠恭宅となっている。

          

津和野の藩校「養老館」時代には、森鴎外と一番・二番を争った仲で「林(りん)さあ」(鴎外の本名は林太郎)「鋼(ごう)さあ」(忠恭の本名は鋼善と呼び合っていたという。

 

明治14年(1881年)東京大学医学部卒業前の鴎外を訪ね、浜田師範学校は卒業したが、済生学舎で医学開業試験を受けてみたいと言ったという。9月、東京 芝の勧学義塾で英語・数学を学ぶ。

 

明治15年(1882年)10月 済生学舎で生物・物理・化学を学び始めるも、医学修業が出来なくなり、漢詩の修行をした。

 

明治17年(1884年)しばらく東京で教員の職に就いていた。

 

明治32年(1899年)8月 邑智郡川本小学校長の時、小倉師団軍医部長に着任したばかりの森 鴎外をたずねる。

 

明治45年(1912年)益田小学校長、益田高等学校の前身である町立益田女子技芸学校(石西地方唯一の女子専門学校)の初代校長となる。その後浜田中学校校長など務めた。

 

大正14年(1925年)教職を退き益田に住み、石見漢詩壇の指導者として活躍。

益田市史によれば、蟠龍湖の名付け親であるという。(それまでは大盥・小盥(おおだらい・こだらい)と呼んでいた。

 

昭和4年(1929年)3月逝去、多くの教え子達は忠恭先生を慕って医光寺内に顕彰碑を建て現存している。

墓は津和野「本性寺」にある。

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