医光寺
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雪舟が第5代住職を勤め、雪舟庭園のある寺

足利将軍の台翰(手紙)をもって住職を任命した寺

瀧蔵山 醫光禅寺 臨済宗東福寺派  本尊 薬師如来

雪舟庭園:国史跡名勝文化財(武家様式 池泉観賞半回遊式庭園)

国史跡名勝指定の雪舟庭園6カ所の一つ

総門:県有形文化財(元、七尾城の大手門)

雪舟灰塚:文亀2年(1502年)に益田東光寺(大喜庵)で83歳の生涯を終え、崇観寺において荼毘に付された。

涅槃図:岩国藩絵師湯浅梅翁筆 寛延4年(1751年)作

 醫光寺の前身は臨済宗東福寺派崇観寺。崇観寺は醫光寺の西方にあった古刹で、開山は東福寺の法系、竜門士源(りゅうもんしげん)。

 貞治2年(1363年)斎藤長者の妻、法名直山妙超大姉の本願によって創建された。竜門士源が京都東福寺にいたころ、将軍足利尊氏は彼に厚く帰依をしていた。それが機縁となり、竜門士源は尊氏の推挙によって崇観寺の住職になった。以来尊氏は崇観寺を尊崇したので、道場は次第に増築されて七堂伽藍が完備し、寺領は1,500石を有した。七尾城主第9代益田兼弘公の保護と援助も受けて益々栄え、以後益田家の菩提寺として崇敬厚く隆盛を誇り、当時西国第一の伽藍と言われたという。

 醫光寺は、貞治2年(1363年)第11代兼見公によって、崇観寺塔頭として創建され、寺領は30石であった。その後、第17代宗兼公が、崇観寺の南の高台にあたる現在地に醫光寺を移転して保護を加えたことから、崇観寺は衰退の一途をたどり、更に寺堂の焼失によって両寺は統合され、崇観醫光寺と呼ばれるようになり、その後醫光禅寺となった。

 文明年間(1469年~1487年)、画聖雪舟が第5世住職として入り、名園を築いた。現在の庭は享保14年(1729年)の大火後再建されたもので、池泉観賞半回遊式庭園と言われ、春秋に訪れる者の目を楽しませてくれる。

中門(市兵衛門)

 享保14年(1729年)の大火後、ほとんどの堂宇は再建されたが、中門だけが30年経っても再建出来ずにいた。寺僕の市兵衛が、「中門は私のような者が加勢しても、差し支えないものでしょうか」と申し出た。当時の住職南嶺和尚の許しをもらって以来、この中門を再建するために、米はことごとく臼にひき、一合の米は三合にのばして腹を満たし、寝ている間も資金の蓄積を考え、ついに安永年間(1772年~1781年)この中門を再建することが出来たという。中門前右の地蔵は市兵衛地蔵と呼ばれ、その前には市兵衛さんが使ったという臼が、裏返しに埋められている。

益田市染羽町4-29

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