益田兼見(かねみ/かねはる)
益田氏第11代当主 室町 南北朝時代

庶子家から益田氏惣領になり益田氏は飛躍的発展を遂げた。

益田兼見の事績

 ~明徳2年(1391年)

南朝 延元1年(1336年)三隅兼連軍、七尾城尾崎丸木戸を攻められる。

 

歴応4年(1341年)南北朝の戦いで功あり軍中状を受ける。

 

観応1年(1350年)正式に家督を相続する。

 

貞治2年(1363年)崇観寺(現 医光寺の前身)創建、滝蔵権現(天石勝神社)にも力を注ぐ。

 

応安1年(正平23年1368年)大谷御土居焼失。

 

1370年頃三宅に居館を開く。地域支配の骨格を作り繁栄の基礎を築いた。

 

応安7年(1374年)萬福寺を中須から現在地に建立。

 

永和2年(1376年)益田郷(益田上・下本郷)の「田数目録帳」を作成、支配体制を固める。自らの死後も確かにするため置文(家訓)を記す。そこには、一族は不和なく長男の兼世(のち兼顕(かねあき))をもり立てるべきこと、崇観寺(医光寺の前身)・萬福寺(益田11代兼見開祖)・安国寺(浜田市)・臼口大明神(現 神寶山(しんほうざん)八幡宮)・滝蔵権現(染羽天石勝神社)などの寺社を大切にすべきことなど二十一個条が記されています。さらに長男の兼顕だけでなく、その子兼家を嫡流と定めました。祖父の代に孫の代のことまで決めるのは、益田氏の特徴であり、以後も何度か見られます。

 

永徳3年(1383年)将軍足利義満より、益田本郷、弥冨(遠田)、乙吉、土田、岡見、飯田郷、伊甘郷(国府)、宅野別府(邇摩郡)の本領を安堵される。

 

明徳2年(1391年)五輪塔の墓が、伝 兼見墓として萬福寺椎山墓地にある。 

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