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泉光寺
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益田家家臣団により三宅御土居跡に建立された寺

松龍山 泉光寺 浄土真宗本願寺派   本尊 阿弥陀如来

本願寺第12代准如上人の開基による寺である。

門信徒は出雲より下関まで及ぶ武士開祖の寺院。

 「いこうや いこうじ。まいろうや まんぷくじ。そんなこたぁ せんこうじ。」と益田で古き童歌に歌われてきたお寺です。そんな泉光寺は、天正3年(1575年)、七尾城主第19代益田藤兼は、御土居別館の自邸内に阿弥陀堂を建立し松龍山阿弥陀殿と命名、これを先祖の廟所として尊び、家運の隆昌を祈った。関ヶ原の戦い後、第20代元祥が長州の須佐へ転封された時、彼は館邸を解体し大森銀山に代官屋敷として移転した。

 この時、益田家の重臣に鬼村平右衛門祐光という武士がいた。彼と共に益田に残った、髙橋九郎左衛門 ・大谷孫六・増野・中村らの諸士は、何とか益田家の跡地を守る意も含め、祐光に次のように語った。

「現時下根の衆生を済度するには、一向宗(真宗)に及ぶものはない。また、益田公は大織冠の末葉、親鸞聖人もまた藤原鎌足公の苗裔である。御辺若し、上洛して本願寺から寺号と木仏とを頂戴して、一山を創建する意思があるならば、我らは微力ながら檀那となり、一肌脱いで足下を大いに支援しよう。更にこの屋敷跡からは『松龍山阿弥陀殿』の額が掘り出されている。この由緒ある地に一山を建立しようではないか」

 これを聞いた祐光は、京都の本願寺に赴き、准如上人に願いでて寺院建立の免状を得て帰国した。この時祐光は、法名を釋祐念と授かり、髙橋・大谷・増野・中村らの五家の援助を得て、御土居に泉光庵を建立した。後に松龍山泉光寺となり、本願寺の准如上人を開基とした。

 五家は五箇所門徒とよばれて、その後も支援維持の柱石となった。その当時の門徒数は、凡そ五百軒余といわれる。

 昭和47年、三宅御土居跡地が島根県史跡に指定、平成16年に国の指定になり、文化庁との話し合いにより移転を決定、平成23年に昭和町の現在地に移転した。

 大正から昭和の地域の洪水・火災の時は人々の避難所になった。

 

十六善神像:県指定文化財

その他什物多数現存

 

鬼村祐光の逸話

 剛弓を矢継ぎ早に引く無双の武士で、鬼の力があると言われた。後に名を木村に改めた。(益田町誌・泉光寺寺史による)

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 益田市昭和町5-5

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