益田氏第15代当主 室町時代

10歳そこそこで益田氏当主となった兼堯(孫次郎)は、成長して大内文化の益田への定着に努め、雪舟を招き崇観寺(現 医光寺)・萬福寺に庭園を築くなど、益田に室町文化を花咲かせました。

益田兼堯の事績
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応永30年(1423年)~文明17年(1485年)

 

永享3年(1431年)父兼理(かねただ/かねまさ)が戦死し、吉見氏・三隅氏との関係を修復し、室町幕府に忠誠を尽くすことで益田氏の存続を図り一族の家臣団と領主権力を再編成して、石見一国に及ぶ地域支配権力の構築に努め、益田氏惣領がその盟主となる条件を整えた。室町将軍と結んで全国的にも有名な豪族としての評価を獲得した永享10年(1438年)和泉・大和の合戦いに参戦し将軍足利義教(あしかがよしのり)から「屋形号(やかたごう)」の待遇を受ける。

 

嘉吉1年(1441年)嘉吉の乱へ参戦、幕府の命に従い美作高尾城を攻略。

宝徳3年(1451年) 幕府に敵対した河野道治を成敗。

 

康正1年(1455年) 肥後一揆を治める。

 

寛政2年(1461年)大内教弘に属し、河内国にて畠山義就と戦う。

 

文明3年(1471年)48才頃戦場にて、長男貞兼に家督を譲り隠居の身となる。

 

通称は若いころ孫次郎、文安5年(1448年)頃から左馬之助を称し、文明4年(1472年)に越中守に任じられた。出家してから全国瑞兼(ぜんこくずいけん)と号した。

※雪舟の郷記念館には、雪舟作重文「益田兼堯像」が所蔵され、毎年5月と11月に公開しています。